院長紹介

私は、四国は愛媛県の出身です。茅田(かやだ)という名前は、珍しい名前ですが、愛媛県の南予地方にある名字です。

広島大学の歯学部を卒業後、大学2年生のときから決めていた、同じ大学の口腔外科学第一講座の大学院に迷うことなく進みました。

一年間、外来や病棟、手術室などで、主治医団の一番下っ端であるノイエスとして、患者様の治療の雑用一般を仕込まれました。患者様に一番頻繁に接触する役回りでしたから、年配の患者様には可愛がられ、同年輩の若い患者様とは友達のように親しくなることができました。今思い出すと、将来に明るい夢ばかりみていた、一番楽しかった時期であったかもしれません。看護婦さんたちにも、愛のムチでいびられながらも、結構親しくさせてもらいました。いっしょに、呑みに行ったり。

大学院2年生からは、同じ学部の生化学教室にあずけられ癌の研究に明け暮れる毎日でした。とても、充実していた時期であったと思います。研究というものに恋をしていたようなものです。大学院の4年生のときに、今一緒に苦楽を共にしている妻と結婚し、そのまま、すぐに米国のニューヨーク州にあるW.Alton Jones 細胞生物学研究所に留学しました。米国での2年間は、基礎研究の生活も、個人的な新婚生活も、とても刺激的で楽しかったと思います。いろいろなものを見、いろいろなところに行き、とても有意義な体験をさせてもらいました。

帰国後は、大学と日赤で口腔外科医として患者様を診させていただきながら、基礎研究も続けていました。事情があって……、誰にでもなんらかのとても苦しい事情が突然降って湧いてくるということは、人生においてよくあることですよね、私も人並みに辛酸をなめる経験をさせられたわけです。30代の後半になって、私の人生に暴風雨が吹き荒れたのです。13年間過ごした第一口腔外科の医局、学生時代を入れると20年間暮らした、広島大学歯学部を後にしました。その苦しい時期をなんとか乗り越えることができたのは、いつも明るい最愛の妻と二人の息子に恵まれていたからです。このように、歯科医としてはとても変則的な人生を歩んできた私ですが、大学を離れてからは、一開業医として地域の皆様に可愛がってもらいながら、あっという間に20年がたとうとしております。むかしの大学での生活習慣がいまだに抜け切らず、一年に一編は必ず論文を書くことを自分に課してきました。一臨床医とはいえ、歯学という学問を考究する学者でありたいと願っているからです。

患者様を診せていただく哲学は、「歯科治療理念」のコーナーをご覧下さい。

家族を愛し、よき同僚(スタッフ)に恵まれ、晩酌をこよなく愛する私は、最近は、本を読んだり、音楽を聴いたり、文章をなんやかやと書いたり、絵を描いたり、俳句をひねったりしております。大学時代は男声合唱団(グリークラブ)に所属し、卒業後はルネッサンスの曲しか歌わないという、がんこな合唱団で歌っていましたが、歯科医院の経営と息子どもの世話に追われて、歌わない年月が長くなってしましました。必ず、また歌う生活に復帰したいと切望し続けていました。自分が歌えない分は、「はつかいち野外コンサート」を主催して、吹奏楽団のみなさんや女声合唱団のみなさんの出演を、裏方で支えてお世話させてもらっております。ようやく念願かなって、数年前にコールアルス・アンティカという合唱団に復帰しましたが、現在は、ザ メイプル メイツという合唱団で妻ともども歌っています。この合唱団はグリークラブの大先輩であり、広大医学部の臨床教授でもあられる外科医、高橋 信先生が主催されています。そこでの練習は、知る人ぞ知る広島合唱界の名テナー竹本輝夫さん(やはりグリーの先輩で、“古い歌仲間”は失敬な言い方ですが、もう30年来、美声に聞き惚れながら、断続的にごいっしょに歌わせていただいています)の指導がとても楽しく、優しく、厳しいのですが、充実した時間です。夫婦で共通の趣味を持てるとは幸せなことです。また、、最近は50歳以上の夫婦割を利用して、せっせと映画を見に行っています。