読書のお話 その6

2002年のノーベル文学賞受賞者、アニー・エルノーの「シンプルな情熱」を読んだ。不倫相手の他国籍の男に対する、もっぱら肉体的なセックスにたいする女性の 欲求、渇望、「シンプルな欲望」が連ねられた作品だった。この女性がノーベル賞を受賞した価値については、もう少し彼女の作品にあたってみたい。私はおおむね共感を覚えながら女性のセックスの対象となる男性への渇望を読み取っていた。赤裸々な女性の性的対象に対する文学的表現がノーベル賞となったとは考えにくい。セックスを満たしてくれれる異性に対する文学的表現がノーベル賞につながるとの考え方は、時代錯誤的にすぎるから、彼女の作品にはプラスアルファがあるに違いないと私は思っている。そうでなくてはあまりに安易だから。男にはわかり易い、性的追及がノーベル文学賞ではお粗末過ぎる。

田坂広志先生の「死は存在しない」を読んだ。先生は1951年生まれ。東大卒の物理学者だ。先生は「ゼロ・ポイント・フィールド」という量子力学の仮説に注目されて、私とは何か? 死とは何か?ということを科学的に説明されようとしている。「いつか、この人生は終わりを迎え、肉体が死を迎えるとともに、我々の意識の中心は、「ゼロ・ポイント・フィールド」に移り、いずれ自我意識を脱し、超自我意識の段階を経て、最後は宇宙意識へと、合一していく。それは、宇宙意識へと戻っていくことに他ならない。我々の意識の本来の故郷であった宇宙意識へと戻っていくことであり、それは、大いなる帰還と飛ぶべきものであろう」と。「ゼロ・ポイント・フィールド」という量子力学の仮説を少し理解しないと今書いていることは分かりにくい。難しいことは分からなくとも、最低限のその仮説を先生がわかり易く説明されている本なのだ。むかしから、宗教が理解を拒む人間に根気強く、絶え間なく、連綿とその教義を諭そうとしてきたが、人間は本当には理解しようとはしない。いまだに戦争や争いの絶えない未熟なレベルの人間である我々。常に進化を続ける、壮大で深遠な宇宙の背後にある宇宙意識は、私という存在そのものに他ならないと先生は考えられる。そして、この現実世界を生き、肉体に拘束され、自我意識に拘束された個的意識としての私は、宇宙意識が138億年の悠久の旅路の中で見ている「一瞬の夢」に他ならない、と。一瞬の夢から覚めた時、「私」は自分自身が宇宙意識に他ならないことを、知る。それが死というものである、と。

YANLIANKE(本当は漢字ですがYANが出てきませんYAN連科)の「太陽が死んだ日」を読みました。本国、中国では発禁になって台湾やなんかで発刊されるような作品も多くて、ノーベル文学賞の候補になる作家だそうです。さすがに最後の大団円の盛り上がりはすごくて、ノーベル賞もしかりと納得しました。読むのには僕は時間がかかったけれど、難解というのではありません。内容に触れるとネタバレになるので止めておきます。また、機会があればほかの作品も手にしたいとは思います。作品内にYANLIANKEなる人物が出てきます。作家として。「書かなければ気が狂って死んでしまうというのだから書かせればいい。書いて死んでも生きていると思うんだろうよ。そう言いながらYANの母の顔には、荒野に雨が降るように涙がこぼれていた。—生きていても死んだようになる。死んでこそ生きているようになる」 

ラディゲの「肉体の悪魔」を読みました。早熟な15歳の少年が19歳の若い人妻に恋をして、二人は肉体の悪魔の奴隷になり、妊娠を契機に破滅へ。1921年ラディゲ19歳の処女作。と言ってもラディゲは二作目の「ドルジェル伯の舞踏会」を書いて20歳の若さで腸チフスによって息を引きとった。「肉体の悪魔」はラディゲの身に起こった実話に寄っているようだ。ありがちな話で、このような設定では男はつい先入観で読んでしまう。堀口大学などは「魔に憑かれて」という訳代を与えている。彼も同じように先入観を恐れたに違いない。本作を新訳した中条省平も結局、「悪魔」と「肉体」という言葉が必須と 考えたという。人妻への恋というのはありがちな事例で、理性や常識などの善悪だけで判断せず読むべきだと思う。19歳のラディゲは自身の身に起こった実話をテーマに正直に真摯に煩悶しながら執筆活動に取り組んだに違いない。二年間しか書かなかった青年の作品はセクシーではあっても、真摯に苦悩しながら人間の人生というものの意味に取り組んだに違いない。そうでなくては三島由紀夫や我々読者に長い間愛読される古典になり得たはずがない。

横道 誠の「イスタンブールで青に溺れる」を読みました。著者は大学でドイツ文学と、40歳で自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症と診断された発達障害者として当事者研究をしている学者です。発達障害者は青が好きで水の中から世の中を見ている感じがすることがあるのだそうです。世界各国の都市を巡る紀行文だろうと、はじめから期待はしていなかったのです。私は順番に短い文章が並ぶ短編集があまり好きではありませんから。しかし、都市の見どころ(主に美術館や博物館)や都市に対する思考から連想する文学作品を多く引用し、発達障害者としてのじぶんの特徴や特性を赤裸々に披瀝する読み応えのある内容でした。そこには外国人と発達障害者という「ダブル・マイノリティー」としての海外体験が綴られていたのですが、発達障害者というマイノリティーに対する人々の理解を希求する気持ちが見え隠れしていました。同じマイノリティーとしてのLGBTなどと筆者が重なり合う部分を持っているように感じたのは、私の深読みでしょうか。誤解されては困りますので、私は何事につけマイノリティーをむしろ好ましく思う者であることを付記致します。

オルガ・トカルチュクは2018年度のノーベル文学賞を受賞したポーランドの女性作家だそうです。「優しい語り手」を読みながら女性作家だと気づくことはなかった。例によって書かれている内容の多くが私の知識不足で理解不能だった。ただ、中欧というものが存在するのか? 概念的なものにすぎないのか? という問いを深く考察している、もしくは,問題提起しているらしいことは感じられた。  「母はわたしに、かつて魂と名づけられたものを 与えてくれました。つまり、彼女がわたしに授けてくれたのは、世界で一番すばらしい、優しい語り手だったのです」「優しさは、愛の最も慎ましい形です。優しさは、他者を深く受け入れること。文学は自分以外の存在への、まさに優しさの上に建てられています」「わたしたちは、前提とするのです―中欧と呼ばれるものはある、仮にそれが、まずはその概念に好意的な知識人の頭脳のうちに存在するものだとしても」 

 

ルシア・ベルリンの最新作「すべての月・すべての年」を読む前に前作の話題作「掃除婦のための手引書」(A  Manual for Cleaning  Women)を読んでみようと思って読み始めたのです。それぞれの時代に拓郎やユーミンやみゆきや尾崎豊やミスチルを聴いてショックを受けたに近いショックが感じられる作品でした。読み手である私よりも、同時代の同じ作家として口を糊している人々にとって、よりショッキングな出会いではなかったろうかと感じた次第です。「彼女は無言だった。だが死が彼女に作用しているのがわたしにはわかった。死には癒しの力がある。死は人に許すことを教え、独りぼっちで死ぬのはいやだと気づかせる。(中略)「ママ」「ああ、あたしのママ」息子も泣いていて、彼は姉を抱きしめ、姉もこんどは腕の中でゆらゆら揺られるに任せていた。わたしはそっとキッチンを出て、裏口から外に出た」 「サリーと前夫も深い絆で結ばれている。だとしたら、結婚とはいったい何なのだろう。いくら考えてもわからない。そしていま、死もわたしにはわからないものになった」「ママは ”愛”って言葉が大嫌いだった。『もしもあんたが馬鹿でどうしても結婚するっていうなら、せめて金持ちであんたにぞっこんな男になさい。まちがっても愛情で結婚してはだめ』愛は人を不幸にする、と母は言っていた。愛のせいで人は枕を濡らして泣きながら寝たり、涙で電話ボックスのガラスを曇らせたり、泣き声につられて犬が遠吠えしたり、タバコをたてつづけに二箱吸ったりするのよ!」「気づかずに過ぎてしまった、どんな愛があっただろう? わたしがここまで長生きできたのは、過去をぜんぶ捨ててきたからだ。悲しみも後悔も罪悪感も締め出して、ぴったりドアを閉ざす。もしもちょっとでも甘い気持ちで細く開けたが最後、バン!」

エルヴェ・ル・テリエ「異常(アノマリー)」を読みました。2020年ゴンクール賞、ニューヨークタイムズのベスト・スリラー2021を受賞。知的好奇心のかき立てられる佳作でした。例によって仕掛けが複雑すぎてすべての細かなエスプリを理解したとはとても言えないけれど、それなりに楽しく読めました。久しぶりの分厚い長編小説でしたが、私なりには快調に読めたと思います。沢山の人の理不尽な、悲しくもある人生が自分を通り過ぎていくのは、まあ、人生だよなあ、と納得しながら読みました。後半のさもあらんといったいエピソードがむしろ作り物感があって、前半の緊迫感のある描写をリアルに感じました。変に解決する方向に書くのだったら、もう少し情感豊かであってもよかったような気はしました。大作であることに変わりはありません。ゴンクール賞受賞作品としては異例のヒットでたくさんの人が手に取られたのも納得でした。

吉本ばなな「ミトンとふびん」を読みました。この作家の出自をうんぬんすることは無意味。あとがきに「読んだ人は癒されたことにさえあまり気づかない。読んだら少しだけ心が静かになった。生きやすくなった。息がしやすい。そんな感じがいい。ー中略ー よりさりげなく、より軽く。しかしよりたくさんの涙と血を流して。この本が出せたから、もう悔いはない。引退しても大丈夫だ。ー中略ー 読んでくださった方たち、少しでも旅に出たくなったり、人生の虚しさが薄らいでくださったら、本望です」と。男女の営みのここぞというところを赤裸々な言葉で書く人なのだと思った。「私が子どもは産めないと会うなり伝えると、外山君は即座に言った。『それなら中で出せる」と即言った」「人はあるとき欲情し、あるときはそれをすっかり忘れ、あるときはしっかりとした気持ちになり、あるときは気まぐれになる。その全部を足したのが今なのだから、理屈はいらない。-強いて言えば彼らの見た目や気配が好き、そのくらいだ。確かなことは」

吉田篤弘「なにごともなく、晴天。」を読みました。私が愛読する数少ない邦人作家です。吉田さんの作品はストーリーがあるようで無い。無いようである。理由ははっきりしませんが、新作を目にするとどうしても手に取ってしまうのです。吉田作品の題名が素晴らしい。「つむじ風食堂の夜」とか「それからはスープのことばかり考えて暮らした」とか、「フィンガーボールの話のつづき」とか。まだまだ、あります。「空ばかり眺めて」なんたらとか「サンドウィッチ」がどうしたとか。なんというか、そそられる題名なのです。そうして、作品のなかで名言を見つけられる。今回の作品の中では、ひと目惚れ は「風邪引き」で、恋になれば「病い」になり、愛は「重病」で、結婚は「入院」、そして離婚は「かすり傷」。かすり傷だったのに、いつまでも治らない、一生ものになっちゃった。気取らないで、大ブレイクしないで、こっそりと楽しませてくださいね。新作を待ってます!

山下賢二「喫茶店で松本隆さんから聞いたこと」を読みました。京都の喫茶店、四店舗での松本隆のほぼ独白。芸能界、とくに歌謡界でのみずからの半生を振り返りながらの蘊蓄といえば、蘊蓄。ぼくたち素人には関係ないと言えばそれまでだけれど。実際の味わいの深い四つの喫茶店の店内の雰囲気を知っていれば、松本隆の話は、もっとずっと味わい深く馥郁たる香りを放つものになるのだろうけれど、残念ながらお店を知らないのだから。京都に行ったら、ドアを分け入ってみたい。 

山中伸弥先生と棋士の藤井聡太君の対談「挑戦 常識のブレーキをはずせ」を読みました。ご存じ山中先生は好奇心溢れ、異分野の様々な人と接する前向きな知識欲、いろいろなことに挑戦している本当に健全な精神と健全な肉体を持たれた小父さんだというのがよく分かりました。若い人は外国に出て行って、異分野の知に触れる体験をして、自信をつけるようにと勧められます。調子のいいときは「次に何か大変な事が起こるかも知れない」と用心して、調子の悪いときは「次にどんないいことが起こるのだろう」と楽しみにする。失敗を恐れずに挑戦する。やらずに後悔するよりは、やって失敗する方がいい。何も挑戦しないのが一番の失敗だと言います。明確なビジョンを持ち、それに向かって懸命に努力することが研究者としても人間としても成功する秘訣だと、留学先の恩師から教えられたのだそうです。藤井君のことばで山中先生の胸に響いたことば。「強くなければ見えない景色は確実にあると思うので、そうした景色を見るところまで行きたい」

坂口恭平「土になる」を読みました。躁うつ病で気分が落ち込みがちだった筆者が、土に触れながら農業をしているうちに、土を食べたいという気持ちにまでなって、作物や野良猫などの自然の産物、自然そのものの癒しの力を実感するというような内容です。言うは易し、というのが正解でしょう。わたしが物知り顔でこの作品を紹介したってなんにもなりません。自然そのものの癒しの力は、理屈ではない。経験した者にしか本当のところは分かるわけがありません。土に触れていると気持ちが安らぐくらいは理解し得ても、土を食べて、土になりたいというのは経験した者にしか本当のところは分かりません。坂口は土を食べたいと思ったのです。あんちょこな理解を越えています。ゴッホのことばを借りて言っていることは、象徴的です。曰く「まるでこの世界でなく、すでに別の世界に生きているているみたいだ」

デヴィッド・フォスター・ウォレス「これは水です」読みました。2010年タイムス誌で全米第1位に選ばれた「卒業式スピーチ」だそうです。曰く「ほんとうに大切な自由というものは よく目を光らせ、しっかり意識を保ち 規律をまもり、努力を怠らず 真に他人を思いやることができて そのために一身を投げうち 飽かず積み重ね 無数のとるにたりない、ささやかな行いを 色気とはほど遠いところで 毎日つづけることです」曰く「三十歳になるまで いや、たぶん、五十歳になるまでには どうにかそれを身につけて 銃でじぶんの頭を撃ち抜きたいと 思わないようにすることです」そう言いながら三年後に鬱を病んでいたウォレスは警戒していた妻の目を盗んで首を吊って自殺した。46歳。鬱の恐ろしさというしかない。酒に溺れ、ドラッグの中毒になり、よくある展開。鬱は本気になったら死に至る病なんだ。 ところで、日本では「魚の目に水見えず、人の目に空(風)見えず」と言うんだそうな。ウォレスにとってはそれを身につける五十の歳をとることが間に合わなかったのだろうか? 

イアン・マキューアンを続けて読んでみました。手にしたのは2007年の作品「初夜」。原題は「チェジル・ビーチにて」だから、邦題はかなり読者にエロティックな期待感をもたせるものになっている。内容からして別に変ではないが、じぶんを含め男性諸氏は先入観とある種の期待をもちながら読み進めることを強いられると思う。セックスを嫌悪し肉体的にも精神的にも拒否する花嫁と女性経験の乏しい青年のまさに初夜からお話は始まる。またしても、この作家の文章は相当の美文で、原文で読んでこそその美しさや繊細さを味わえるのだろうと感じた。僕には無理だ! そうして、音楽家の才能豊かな花嫁と花婿の初夜は悲惨な結末を迎え、二人の関係は破綻してしまう。女性はその後、音楽家として開花してゆく。男性はそこそこの人生を歩んだが、一生を通じて最も純粋に激しく愛した女性は最初の花嫁以外にはなかったことを知るようになる。私なんかからすれば、セックスの伴わない夫婦関係など、特に若い頃には我慢できないことではないかと思うのだけれど、男性はあのときセックス恐怖症の女性を妻のままにしておけば、じぶんの人生はもっと別のものになっていただろうにと悔やむ部分がある。人生の岐路に立った時に神様のいたずらでちょっとした選択をしなかったせいで、人生は全く別物になってしまうのだというお話。チェジル・ビーチで若い二人がそれぞれに口にしていくことばの選択が、二人の人生を全く変えてしまった。人生の危うさと偶然の恐ろしさを感じながら読めた佳作だった。

イアン・マキューアンの「アムステルダム」を読んだ。’98のブッカー賞受賞作らしい。ストーリも大人の狂気の沙汰もぶっ飛んでいて、僕より10歳ほど年配のこの作家の50歳のころの作品だ。作品の随所にちりばめられている蘊蓄や美しい文章や人生に対する感慨は、おそらく原文を読んで英語に堪能な者にしか理解できないものだ。その気配は感じられるけど、やはりだめだ。そのような美文こそがこの作品の品性を高めているのだろうに、僕らには奇想天外にぶっ飛んだストーリーしか追っていけない。残念無念。この作家の作品をまた読み重ねていくうちに感じ取るしかないのかも知れません。