読書のお話 その6

吉本ばなな「ミトンとふびん」を読みました。この作家の出自をうんぬんすることは無意味。あとがきに「読んだ人は癒されたことにさえあまり気づかない。読んだら少しだけ心が静かになった。生きやすくなった。息がしやすい。そんな感じがいい。ー中略ー よりさりげなく、より軽く。しかしよりたくさんの涙と血を流して。この本が出せたから、もう悔いはない。引退しても大丈夫だ。ー中略ー 読んでくださった方たち、少しでも旅に出たくなったり、人生の虚しさが薄らいでくださったら、本望です」と。男女の営みのここぞというところを赤裸々な言葉で書く人なのだと思った。「私が子どもは産めないと会うなり伝えると、外山君は即座に言った。『それなら中で出せる」と即言った」「人はあるとき欲情し、あるときはそれをすっかり忘れ、あるときはしっかりとした気持ちになり、あるときは気まぐれになる。その全部を足したのが今なのだから、理屈はいらない。-強いて言えば彼らの見た目や気配が好き、そのくらいだ。確かなことは」

吉田篤弘「なにごともなく、晴天。」を読みました。私が愛読する数少ない邦人作家です。吉田さんの作品はストーリーがあるようで無い。無いようである。理由ははっきりしませんが、新作を目にするとどうしても手に取ってしまうのです。吉田作品の題名が素晴らしい。「つむじ風食堂の夜」とか「それからはスープのことばかり考えて暮らした」とか、「フィンガーボールの話のつづき」とか。まだまだ、あります。「空ばかり眺めて」なんたらとか「サンドウィッチ」がどうしたとか。なんというか、そそられる題名なのです。そうして、作品のなかで名言を見つけられる。今回の作品の中では、ひと目惚れ は「風邪引き」で、恋になれば「病い」になり、愛は「重病」で、結婚は「入院」、そして離婚は「かすり傷」。かすり傷だったのに、いつまでも治らない、一生ものになっちゃった。気取らないで、大ブレイクしないで、こっそりと楽しませてくださいね。新作を待ってます!

山下賢二「喫茶店で松本隆さんから聞いたこと」を読みました。京都の喫茶店、四店舗での松本隆のほぼ独白。芸能界、とくに歌謡界でのみずからの半生を振り返りながらの蘊蓄といえば、蘊蓄。ぼくたち素人には関係ないと言えばそれまでだけれど。実際の味わいの深い四つの喫茶店の店内の雰囲気を知っていれば、松本隆の話は、もっとずっと味わい深く馥郁たる香りを放つものになるのだろうけれど、残念ながらお店を知らないのだから。京都に行ったら、ドアを分け入ってみたい。 

山中伸弥先生と棋士の藤井聡太君の対談「挑戦 常識のブレーキをはずせ」を読みました。ご存じ山中先生は好奇心溢れ、異分野の様々な人と接する前向きな知識欲、いろいろなことに挑戦している本当に健全な精神と健全な肉体を持たれた小父さんだというのがよく分かりました。若い人は外国に出て行って、異分野の知に触れる体験をして、自信をつけるようにと勧められます。調子のいいときは「次に何か大変な事が起こるかも知れない」と用心して、調子の悪いときは「次にどんないいことが起こるのだろう」と楽しみにする。失敗を恐れずに挑戦する。やらずに後悔するよりは、やって失敗する方がいい。何も挑戦しないのが一番の失敗だと言います。明確なビジョンを持ち、それに向かって懸命に努力することが研究者としても人間としても成功する秘訣だと、留学先の恩師から教えられたのだそうです。藤井君のことばで山中先生の胸に響いたことば。「強くなければ見えない景色は確実にあると思うので、そうした景色を見るところまで行きたい」

坂口恭平「土になる」を読みました。躁うつ病で気分が落ち込みがちだった筆者が、土に触れながら農業をしているうちに、土を食べたいという気持ちにまでなって、作物や野良猫などの自然の産物、自然そのものの癒しの力を実感するというような内容です。言うは易し、というのが正解でしょう。わたしが物知り顔でこの作品を紹介したってなんにもなりません。自然そのものの癒しの力は、理屈ではない。経験した者にしか本当のところは分かるわけがありません。土に触れていると気持ちが安らぐくらいは理解し得ても、土を食べて、土になりたいというのは経験した者にしか本当のところは分かりません。坂口は土を食べたいと思ったのです。あんちょこな理解を越えています。ゴッホのことばを借りて言っていることは、象徴的です。曰く「まるでこの世界でなく、すでに別の世界に生きているているみたいだ」

デヴィッド・フォスター・ウォレス「これは水です」読みました。2010年タイムス誌で全米第1位に選ばれた「卒業式スピーチ」だそうです。曰く「ほんとうに大切な自由というものは よく目を光らせ、しっかり意識を保ち 規律をまもり、努力を怠らず 真に他人を思いやることができて そのために一身を投げうち 飽かず積み重ね 無数のとるにたりない、ささやかな行いを 色気とはほど遠いところで 毎日つづけることです」曰く「三十歳になるまで いや、たぶん、五十歳になるまでには どうにかそれを身につけて 銃でじぶんの頭を撃ち抜きたいと 思わないようにすることです」そう言いながら三年後に鬱を病んでいたウォレスは警戒していた妻の目を盗んで首を吊って自殺した。46歳。鬱の恐ろしさというしかない。酒に溺れ、ドラッグの中毒になり、よくある展開。鬱は本気になったら死に至る病なんだ。 ところで、日本では「魚の目に水見えず、人の目に空(風)見えず」と言うんだそうな。ウォレスにとってはそれを身につける五十の歳をとることが間に合わなかったのだろうか? 

イアン・マキューアンを続けて読んでみました。手にしたのは2007年の作品「初夜」。原題は「チェジル・ビーチにて」だから、邦題はかなり読者にエロティックな期待感をもたせるものになっている。内容からして別に変ではないが、じぶんを含め男性諸氏は先入観とある種の期待をもちながら読み進めることを強いられると思う。セックスを嫌悪し肉体的にも精神的にも拒否する花嫁と女性経験の乏しい青年のまさに初夜からお話は始まる。またしても、この作家の文章は相当の美文で、原文で読んでこそその美しさや繊細さを味わえるのだろうと感じた。僕には無理だ! そうして、音楽家の才能豊かな花嫁と花婿の初夜は悲惨な結末を迎え、二人の関係は破綻してしまう。女性はその後、音楽家として開花してゆく。男性はそこそこの人生を歩んだが、一生を通じて最も純粋に激しく愛した女性は最初の花嫁以外にはなかったことを知るようになる。私なんかからすれば、セックスの伴わない夫婦関係など、特に若い頃には我慢できないことではないかと思うのだけれど、男性はあのときセックス恐怖症の女性を妻のままにしておけば、じぶんの人生はもっと別のものになっていただろうにと悔やむ部分がある。人生の岐路に立った時に神様のいたずらでちょっとした選択をしなかったせいで、人生は全く別物になってしまうのだというお話。チェジル・ビーチで若い二人がそれぞれに口にしていくことばの選択が、二人の人生を全く変えてしまった。人生の危うさと偶然の恐ろしさを感じながら読めた佳作だった。

イアン・マキューアンの「アムステルダム」を読んだ。’98のブッカー賞受賞作らしい。ストーリも大人の狂気の沙汰もぶっ飛んでいて、僕より10歳ほど年配のこの作家の50歳のころの作品だ。作品の随所にちりばめられている蘊蓄や美しい文章や人生に対する感慨は、おそらく原文を読んで英語に堪能な者にしか理解できないものだ。その気配は感じられるけど、やはりだめだ。そのような美文こそがこの作品の品性を高めているのだろうに、僕らには奇想天外にぶっ飛んだストーリーしか追っていけない。残念無念。この作家の作品をまた読み重ねていくうちに感じ取るしかないのかも知れません。