読書のお話 その7

けして現在のイスラエルのガザ地区への戦争を予測してではないのでしょうが、それぞれテロや射撃によって10歳と13歳の愛する娘を失ったイスラエル人とパレスチナ人の、深い悲しみに根差した友情と、争いをやめる以外に方法はないのだと訴える二人の男たちの過酷な現状が赤裸々に描かれている、コラム・マッキャンの「無限角形 1001の砂漠の断章」(2023、04,20日本版初版)を読みました。最近の私の読書のスピードの愚鈍さの例にもれぬ、長い時間を要した読書でした。偏見や誹謗中傷などに振り回されながらも、無益なイスラエルとパレスチナの戦争を、互いに愛娘を失ったという視点から悲しくも戦争の無益さを厳格に訴えた作品でした。著者のコラム・マッキャンは2009年に「世界を回せ」で全米図書賞を受賞したアイルランド出身の作家です。本作はイギリスのブッカー賞にノミネートされた佳作です。『憎んでいる時間はありません。痛みをどう使えばいいのか、それを学ぶ必要があります。血ではなく平和のために投資してください。私たちはそう言い続けています。パレスチナでは、無知とだけは知り合いになるな、と言われています。私たちはイスラエル人とは話しません。許可されていないんです。パレスチナ人もイスラエル人も、互いに話したいとは思っていません。だから相手がどんな人間なのか想像できない。そこに狂気が潜んでいます。どんなに沈黙が支配しているように見えても、私たちに声がないわけではありません。私たちはこの土地でどうすれば一緒に暮らせるか、それを学ぶ必要があります。死んでから墓の中で共存し合ってもしかたないでしょう。  私たちパレスチナ人は、多くの人にとって人間として存在していません。私たちは公的にはどこの国の人間でもないんです。一箇所だけ、あなた方の刑務所でなら私は存在するかもしれません。  殺し合いを続けなければならないなんて、どこにも書いてないでしょう? 彼らは私の娘といっしょに私の恐怖心まで殺しました。  私自身が占領されず、権利を持ち、移動が許され、投票が許され、人間であることが許されれば、何だって可能です。』 

内田 樹の「村上春樹にご用心」を読んだ!? 村上春樹の最新作を読んで、その余韻に浸っていたくて、つぎの本に進められないでいたら、悪友が紹介してくれた。つまらない本だ。村上春樹が文壇からも、日本の評論家 からも評価されないで孤立しているということはわかったけど、じゃあどうしてと読み進めてもはっきりとは、つまり私のような頭の悪い者にもわかるようにちゃんとは説明してくれない。はっきり言うと差し障りがあるのだろう。つまりそういうことなのだろう。村上春樹の作品は洗練されていて、清潔感にあふれていて、若い男女の恋を語らせたらちょっとほかの日本の作家にはできないことをポンと提示してしまう。内田 樹が大いなる村上ファンであることはよく分かった。なんだこのおっさん、どんな出自? と作家紹介を見てみたら、ぼくより9歳上で、しかもかの東大仏文科の出身だった。それならもうちょっと真剣に読んだのにと思ったがもう遅い。その中に心に刻まれた文章はあった。「これはやはり霊的生活の比喩じゃないかなと思います。村上春樹ってそういう話ばかりしている人ですからね」「およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は死者から受ける影響を扱っている。文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである。 近いところでは村上春樹の作品はほぼすべてが幽霊話である(村上春樹の場合は幽霊が出る場合と人間が消える場合と二種類あるけれど、これは機能的には同じことである)」夏目漱石だってそうだ。吾輩は猫であるの猫は執筆時点ではすでに死んでいる、あれはテクスト全体が死猫からのメッセージ。こゝろもそうだね。あれも第三部からは死者からのメッセージだ。死者は死んでもう存在しないから、私たちには何の関係もない、などとお気楽なことを言う人間は文学とも哲学ともついに無縁である」

長い長い時間を掛けて、村上春樹の「街とその不確かな壁」を読んだ。面白かった。村上作品の全体を通しての評論めいた解釈をするのはあまり意味がないし、作者自身もなんらの意図を持たずに書いているのではないかと思う。村上作品の面白くてしようがないとう側面は、その場面設定の妙にあると思う。書かれている場面設定がイカしているし、登場人物の会話がまたイカしている。はっきり言ってしまえば、jazzyなんだと思う。白けてしまってはjazzという音楽は成立しない。何を言いたいのかという意図が透けて見えてはjazzはつまらない。人々を唸らせる、洗練と意表を突いた展開。これが命かな? と、jazzをなんにも知らない私は思う。ただ、この50年近く断続的に合唱に浸ってきた私から言わせてもらっても、先が見えたり、意図が見え見えの音楽なんてつまらない。意表を突いた和音の進行、調整の展開があってこその音楽だ。村上春樹の卒業制作に近い一作なのかも知れないと思いながら、じっくりと味わいながら読ませてもらった。得も言われぬか佳作であることは疑いの余地がない。

坂本龍一がつい先ごろ亡くなった。70代前半じゃないかと思う。また、早すぎる死。坂本龍一と福岡伸一の対談「音楽と生命」を読んだ。福岡先生の著作は何冊か読んだことがあったから、先生の思考の方向はおおよその見当がついていた。坂本龍一の音楽をとりたてて聴いていたわけではない。むしろほとんど受動的に耳にしてきただけだ。しかし、この人がとても博識で音楽以外の事柄にも豊富な知識を持っていたことには驚かされた。二人の会話はいつもロゴスとピュシスの対立ということに話題が収斂していくのだそうな。簡便に言ってしまうと、ロゴスとは人間の考え方、言葉、論理といったもので、ピュシスとは人間も含めた自然そのものらしい。一本の木が若葉を茂らせる時から樹齢を重ね倒木となる時まで多くの生命を育み、大きな自然の連環を形作ると同じように、人間の死も次の世代にある種の贈与を残す利他的行為だと言う。個体の生命が有限であることが、すべての文化的、芸術的、あるいは学術的な活動のモチベーションになっているのだと。 おおいに賛同。