読書のお話 その8

ブリジット・ジローの「生き急ぐ」(2024年11月日本版初版)を読んだ。2022年のフランス文学最高峰、ゴンクール賞受賞作品だ。作家デビューから10年経って、数々の賞を取ってきた作家のゴンクール賞受賞作。「非常にシンプルな装いをまといつつ、運命という非常に深遠な問いを投げかけている偉大な作品」と評された。実際に、おそらく41歳の若さで夫をバイクの事故で喪った作者の体験記なのだろうが、ほとんどのページをもしもあの時、ああしなかったら、こうしていなければという強い運命と後悔の念で埋め尽くされている。けして、稀有なことでも特殊なことでもない。内容はシンプルで、ある意味ではありきたりなことでさえある。しかし、「個人的な事柄は集団と共鳴してこそ意味を持つ」という作者のことばには説得力も、納得感もある。しかし、しかし、それはあくまで稀有なことではなく、むしろ日常茶飯事起こりうる、人間という無防備な動物の地球上で生きるうえでの、単なる宿命としか私にはい思えない。そこにこそ人間の生きる価値があるのだという使い古された言い回しに、頷くしかないのは事実ではあるのだが。

堀江敏幸の「音の糸」を読んだ。題名に惹かれて久しぶりに堀江作品を手にした。わたしが続けて読む数少ない邦人作家の一人だ。一文が暗喩に満ちて長文 なのが特徴だ。懐かしいものに触れるみたいにして読んだ。堀江氏は学部は早稲田だと思うが、大学院は東京大学の仏文科。東大仏文科の流れは吉田秀和や大江健三郎などたくさんの素晴らしい先輩がいる。この人は凝り性なんだろう、なんにでも造詣が深くて、今回も音楽に対する造詣の深さに恐れ入るばかりだった。しかも、この音楽家のこの作品なら、この指揮者のこの録音がいい、とじぶんの中でしっかり刻み込まれているくらいの音楽通とは知らなかった。趣味のしっかりしていて、嫌になるくらいの知識量や凝り具合には、東大卒の連中の知的活動に対す体力勝負みたいな適わなさを感じる。文章を読んでいるぶんには心地いいのだけれど、内容には付いてはいけない。

梨木香歩の「小さな神のいるところ」を読んだ。「西の魔女が死んだ」の梨木香歩は私と同年の生まれ、学年はどうか分からないが。家内と二人の息子は読書の傾向が私とは違っていて、「ネバーエンディングストリー」や「ハリーポッター」シリーズとともに「西の魔女が死んだ」は彼らが愛読して、感想を述べあっていたような記憶がある。私は彼女の「やがて満ちてくる光の」を読んで共感して好感をもっていた。「小さな神のいるところ」には主に彼女の別荘?のある八ヶ岳の山小屋に集まってくる小鳥たちの専門家顔負けの描写が多かった。私は鳥類が苦手で我が家の猫の額ほどの庭に集まってくる鳥たちの中でやや許せるのは、ヤマガラや目白やスズメくらいで、それでも手で触ったりはできない。私は鳥が恐いのだ。我が家の庭にやってくるヒヨや山鳩は大きすぎて手を触れることなど金輪際できない。一番怖いのは鶏。あのトサカを見るだけで身震いがする。本書では飛行機に搭乗する列に混ざっていて、動けなくなっていた認知症気味の老婆の背中に彼女がそっと触れながら 「ごいっしょしましょう」と声をかける場面。老婆は若干会釈するように「ごめんねえ」と彼女に返す。「ありがとう」と同義のもの。亡くなった父母の死の一部始終を突き止めようと躍起になっていた彼女は、その時雷に打たれたように自分がなそうとしていることが腑に落ちる。じぶんはこの方のために、この方の背後にいる多くの「この方」のために動いているのだと合点する。暴力的な流れのなかで、なすすべもなく立ち尽くす老人医療の受け手たち。そのなかの一人でも、少しはましな最期が迎えられるように。背に当てた手から感じる存在の尊さに涙が滲む。小さな神様たちが消えていかないように。

鈴木大拙(これは居士号で、俗名というか本名は貞太郎)の「金剛経の禅 禅への道」を読んだ。このような本を読んだなどと言ってはいけないのだけれど。「初めは目で読む(眼読) のであるが、だんだん心で読む(心読)ようになり、ついには手足で読む(色読)ようになる」らしいけれど、「座り、読み、座り、読み、座る」「最後まで読み終えると、再び初めに返ってよみなおす。同じ方法で二回三回と繰り返すと、読書百遍意おのずから通ずるようになる」といわれれば、「私この本読みました」などと言えるはずがない。勿論私の読書はまだまだ「眼読」にほど遠い。「ちょっとこの本ぱらぱらとめくりました」と言っておくくらいでちょうどよいのかも? 大拙は1870年石川県の生まれ。円覚寺に参禅して、円覚寺派管長である今北洪川、釈 宗演に師事し、大拙という居士号を受けた。1897年渡米し、雑誌編集に携わる。1909年帰国後は学習院、東京帝国大学、真宗大谷大学に勤務。英文著書も多く、広く欧米に仏教を紹介した。1966年没。禅者にして大学者の大拙を解説者は、インドから中国に禅の道が達磨大師によって伝来されたことになぞらえて、大拙によって日本から欧米に禅の道が伝来された、とのたまっている。こんな本を読んだとはとても言えません! 「覗いた」だけです。(「復活かやだ歯科倶楽部」の134号を御参考あれ)

パーシヴァル・エヴェレットの「ジェイムズ」を読んだ。全米図書賞、ピュリツァー賞、英国図書賞、アンドリュー・カーネーギー賞、カーカス賞の5冠受賞の評価の高い作品だ。初版発行が2025年6月30日。今回も例によって超スローな読書。今は2025年12月の末だから、来年の目標は本をもう少し加速度的に読むということにしようと思う。言ってしまえばアメリカの奴隷のお話。ちょうど南北戦争の勃発前夜の。でも、ストーリーは黒人奴隷にして、逃亡奴隷でもあるジェイムズの個人的な逃亡記、妻や娘を救い出すために淡々と進んでいたお話は、大団円に至って急展開を遂げる。基本的には穏やかなジェイムズが銃を手に入れて、白人を絞め殺したり、銃殺したりする最後。白人たちはジェイムズが奴隷のことばをしゃべらないこと、書物を読んだり、きちんと筋の通った理屈を言ったり、つまり奴隷が人間であることに気づき怯える。ことの顛末は明かされない。黒人奴隷は我慢の限界を超えて、激怒して、人間の尊厳をぶちまける。時は、南北戦争の開始を告げる。 

デーリン・ニグリオファの「喉に棲むあるひとりの幽霊」を読んだ。アイルランドの詩人、作家。詩人として評価の高い彼女の散文デビュー作で評価され賞も受けている。ニューヨークタイムズなどでも2021年のベスト本に選出されている。「力と魔法にあふれた回顧録と文学的探究の溶解……ニグリオファは女性たちの人生に生じた溝、沈黙、謎に自らを深く調和させている。本書が明らかにするのは、私たちは愛するとき、どれほど深く愛するのかー子供、恋人、そして詩をーそしてそれが私たちを、内側からどれほど変容させるか、だ」(ニューヨークタイムズ のニナ・マクラーレンの評)1773年に殺害された夫のもとに馬で駆けつけ、彼の血をすくって飲み、哀歌(クイネ)を歌ったアイリーン・ドブ・ニコルという実在の詩人と作者が再会する。アイルランドの「クイネ」は 「死者に対して泣き叫んだり、悲しんだり」もしくは「哀歌を歌う」などの意味を持っているらしい。作者のことばにならないうなり声、泣き声、喘ぎ声とドブ・ニコルのクイネが響き合い、「わたしはここに確かにいるんだ」と叫んでいる。